江戸城跡
皇居東御苑は江戸城のあったところで、同心番所、百人番所、二の丸庭園、三の丸尚蔵館、天守閣跡などがあり、皇室関係の行司に支障が無い限り、昭和43年10月から一般に公開されています。
大手門
旧 江戸城の正門で、大名はここから登城していました。大手門の高麗門をくぐって中に入ると、枡形と呼ばれる四角く囲まれた広場になっています。この枡形は、 敵が城内にまっすぐに侵入するのを防ぐとともに、攻撃の際には兵の集合場所にもなる施設で、周囲の白壁には「狭間」という銃を撃つための穴があります。江 戸城の城門の多くは、この形式でした。
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百人番所
江戸城の正門だった大手門から,本丸に入るときの最大の検問所で、大手三之門の前に設けられたのがこの百人番所で,甲賀組,根来(ねごろ)組,伊賀組,二十五騎組の4組が昼夜交代で護りを固めていました。各組には,同心百人ずつが配属されていたところから百人番所の名が生まれました。
二の丸庭園
江戸時代、二の丸には、小堀遠州が造り、三代将軍の徳川家光の命で改修されたと伝えられる庭園がありましたが、長い年月の間にたびたび火災で焼失し、明治以降は荒廃していました。
現在の回遊式の庭園は、昭和43年の皇居東御苑の公開の開始に当り、九代将軍徳川家重の時代に作成された庭園の絵図面を参考に造られたものです。
諏訪の茶屋
諏訪の茶屋は、江戸時代には吹上地区(現在の御所などのある一帯)にありました。この建物は、明治45年に再建されたもので、明治期の茶室風の建物として優雅な外観を持っているため、皇居東御苑の整備に当りここに移されました。
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江戸城跡
江戸城の天守閣は、二代将軍秀忠の代の慶長11年(1606年)と翌年の2年にわたって建設され完成しました。その後、元和8年(1622年)、承応2年 (1635年)とたびたび修築され、寛永14年(1637年)三代将軍家光の代に、江戸幕府の権威を象徴する国内でも最も大きな天守閣が完成しました。天守閣は、地上からの高さは58mあり、天守閣の基礎石積みは、44メートル四方、高さ18メートルで、その上に金色のシヤチを頂く外観五層、内部6階の天守がそびえていました。しかし、明暦3年(1675年)の大火(振り袖火事)で焼失した後は、再建されていません。基礎石である石垣だけが残っていて、現在の石垣の高さは約10mです。
松の廊下跡
忠臣蔵でおなじみの元禄14年(1701年)3月14日赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が殿中で吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなか)への刃傷事件(にんじょうじけん)を起こした場所です。